(この記事の最終更新日は、2020年3月9日です。)
こんにちは!山猫の雑記ブログ管理人の山猫です。(@yamaneko_solar)
今回は、地域の史跡探訪シリーズ
静岡県中部、藤枝市にある、古い堤防跡。いまでは役割を終えてほとんど消滅してしまいましたが、わずかに残った堤防と資料館「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」があります。
この記事は、「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」の行ってきたレポートです。
(※実際に千貫堤・瀬戸染飯伝承館を訪れたのは、2019年2月2日)
瀬戸の染飯というのは、このあたりの名物だったみたい。どんな食べ物なのかな?
そもそも、千貫堤とは?
藤枝市にある、千貫堤ですが・・・実は地元の人でも知っている人は多くありません。
千貫堤は、江戸時代初期に作られた、大井川の氾濫から田中藩領の村々を守るために作られた堤防なのです。
慶長9年(1604年)と寛永4年(1627年)の大洪水で、この地域一帯が壊滅的な被害を受けたため、当時の田中藩主、水野忠善は、幕命を受け堤の築造に取り掛かったと言われています。
堤の規模は、全長500m 幅32m 高さ3.6mほどであったと推定されています。
かなりの規模の堤防だったのですね!!!
千貫(一貫は、1000文)もの膨大な費用が掛かったため、千貫堤と呼ばれるようになったと言われています。
ちなみに一貫文は現代で約11,520円と換算できるようです。つまり、千貫とは・・・
11520円×1000 = 11520000円 1100万円!と言うことになりますね。。
うーん。現在の感覚では、1100万でできる規模だとは思えないのですが、、換算式が間違えているのかもしれませんね。。。
本当に千貫かかったのではなく、すごくお金がかかったという意味で使っているのかもね!
実は、この千貫堤。今はほとんど残っていません。
昔の航空写真では、はっきりとその姿を見る事が出来るのですが、周囲の宅地や道路の造成に伴って、徐々に姿を消してしまい、現在は、東海道本線の北側に長さ65m 幅30mが残されるだけとなりました。
1960年代初めの航空写真です。薄くて見えにくいのですが、オレンジの丸で囲った部分に堤が写っています。
ちなみに現在も残っているのは、上の丸の中の四角で囲った部分。なんでこんな大事な史跡を壊してしまったのでしょうか。。。
本日お伝えする、「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」は、その千貫堤の上に立っている資料館となります。
「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」への行き方
「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」への行き方を解説していきます。
このブログでは、自動車で行く場合を想定しています。
自転車やオートバイの場合、「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」の前まで行けますので、この説明とはちょっと変わってきます。
まずは、「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」がどこにあるか?ですが、
何とも説明しにくい場所ですね。旧東海道と東海道本線の間にあるのは分かるのですが。。
ちなみに、旧東海道を走っていると、「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」はこちらという看板が見えます。
自転車やオートバイの場合はそのまま曲がって行っても差し支えないのですが、自動車の場合、道が細い上に、「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」前に駐車場がありませんので全力でスルーしましょう。
自動車で行く場合の起点になるのが、「瀬戸公民館」。
瀬戸公民館には、20台くらい自動車を止める事が出来る駐車場があります。
公民館の駐車場ではありますが、「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」の駐車場も兼ねているため、安心して車を止める事が出来ます。
カーナビで行く場合は、
静岡県藤枝市末広2丁目3-1と入れるか、瀬戸公民館で検索してみてください。
(瀬戸内地方のどこかの公民館がヒットしたらそれは間違いです!検索結果が藤枝市の中である事をご確認ください。)
ちなみに瀬戸公民館はこんな建物です。
東海道本線の踏切を渡るとすぐにありますので、見逃さないように気を付けてください。
公民館の左手奥が駐車場となっています。
瀬戸公民館の駐車場です。「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」駐車場と書かれていますね。
なぜ時計が設置されているのか?ちょっと不思議ですがまあいいでしょう。
駐車場に車を止めたら、北(東海道本線の線路の方角)を目指します。
東海道本線の線路を渡ります。このあたりは、国鉄時代に新型車両の速度試験が行われたくらい、線路がまっすぐなんです。
踏切を渡ったら、右(東)の方向に向かいます。
看板が出ていました。残り300m ちなみに、千貫堤は、右手に見える小山までつながっていたので、大体の場所は想像できますね。
では線路沿いを歩いていきましょう!
歩いていくと控えめな看板がありました。ここを左に入っていくようです。
建築中の建物の向こう側に、千貫堤と資料館が見えてきました。
あれ、なんだか資料館小さいですね。。。のぼりが立っていなかったら気が付かないくらいですね。
ちなみに「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」は、千貫堤の上に作られています。向かって右の建物と比べると、高さがだいぶ違う事に気が付きます。
駐車場からは歩いて5分程度。この日は、(2019年2月2日)は天気も良く暖かい日だったので、特に疲れる事はありませんでした。
「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」の見学
早速、千貫堤を見学してみましょう。
と言っても、今残っているのは、土の盛り上がりだけです。田中城の土塁を見た時の感覚に近いかな。。。
多少地面が盛り上がっているのが分かります。高さは2mくらいでしょうか。資料によれば、千貫堤の高さは3.6mとありますので、上が削れらてしまっているのかもしれません。
「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」です。建物の前に干してあるのは、「クチナシ」の実です。この「クチナシ」の実が、この建物もう一つの目玉である瀬戸染飯の原料になるのです。
建物は、こじんまりとしていますが、建物自体はかなり新しい物ですね。(平成21年開館との事なので、取材時にちょうど築10年の建物でした。)
ちょっと狭そうなので心配ですが、中に入ってみましょう!
「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」を見学
千貫堤関連の展示
千貫堤関連の昔の写真が出ています。堤だけでなく、昔の東海道の街並みの写真もありますね。びっくりするのは、堤の北側に瀬戸山という山があった事。
標高はすごく高くはなさそうですが写真を見ると50mくらいはありそうな感じです。
でも今はこの山。
消滅しているのです。というか、山猫が生まれたころにはこの山はなくなっていました。。。
山を削るという事が実際にあるとは思っていましたが、、こんな身近で山全体がなくなっている事にびっくりしました。
ちなみに今は、住宅の団地と、大型のホームセンターになっています。
昔の東海道の松並木とか、付近の写真が展示されています。
千貫堤のイラスト(ジオラマ)。これが一番分かりやすいですね。
ジオラマでは、東海道本線が、千貫堤をぶった切っていますが、江戸時代には、東海道本線はなかったので(あたりまえ)堤が山から山へとつながっていた事が分かります。
千貫堤は、ジオラマの下の方にある、本宮山で途切れているのですが・・・
これより南側には必要なかったのかな?
あと、瀬戸の立場と呼ばれる集落は、千貫堤の大井川よりに会ったのですが、洪水が起きたら、堤でせき止められた水がたまりそうな所に集落があるのですが、大丈夫なのかなーと思いました。
瀬戸染飯に関する展示
この、資料館二つ目のテーマが、「瀬戸染飯」と呼ばれる食べ物です。
瀬戸の染飯とは、この千貫堤があったあたりの茶屋で、戦国時代から売られていたもので、東海道の名物としてとても有名な物だったそうです。
この瀬戸という地域は、東海道の藤枝宿と、島田宿のちょうど中間地点に位置していて、旅人がちょっと休憩するための茶屋がいくつもあったようです。
染飯とは、強飯(「こわいい」と言いもち米を蒸したもの)を、”くちなしの実”で黄色く染めてすりつぶし、小判型などに薄く延ばして、干して乾かしたものです。
くちなしの実は、漢方薬として知られていて、旅人にとって足腰の疲れをとる食べ物として評判が良かったようです。
あの葛飾北斎も、瀬戸の染飯を売っている姿を絵にかいています。
この資料館では、瀬戸の染飯についての説明や、染飯を再現したレプリカなどの展示物が用意されています。
残念ながら、当時の染飯がどんなものだったのかは、味付け等の記録が残っていないのでわからないようですが、今でもくちなしの実で染めた、ご飯を売っているお店があります!
それが、藤枝駅前に店舗を構える「喜久屋」さんです。
喜久屋さんの染飯弁当は、事前予約が必要なので、店舗に買いに行ってもない場合がほとんどですが、たまに、地域のイベントに出店していたりする事も。
江戸時代から作られている、くちなしの実で染めた、瀬戸の染飯。
一度、食べてみてください。
染飯のお弁当を作っている喜久屋さんの場所はこちら!
まとめ
今回は、静岡県藤枝市の、「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」をご紹介しました。
千貫堤を知っている人は、地元でもとても少ないと思います。
また、瀬戸山と呼ばれる山があった事も。。
今は、完全に削られて、そこが山だったという事は全く分からなくなってしまいましたから。。(よく見ると、多少盛り上がってはいるのですが。)
ほんの50年位前の事なのに、知らない事が多いな!と改めて感じました!
以上、最後までお読みいただきありがとうございました。
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